軍師・単福

 建安六年(201)、曹操は官渡の戦いで勝利を収めた勢いに乗って、汝南に駐屯していた劉備を攻略。劉備はこの戦に敗れ、荊州の劉表を頼って落ち延びていきました。続く建安七年(202)、袁紹が失意のうちに病死。子の袁譚(えんたん)と袁尚が袁家の跡継ぎを巡って争い、冀州は内乱状態となったのです。曹操はこの機に乗じて冀州攻略を開始。建安十二年(207)に至るまでの五年間に、その領土をことごとく制圧したのでした。ここに曹操は大陸の半分を有する大勢力となり、その名声は揺るぎないものになりました。一方の劉備は、劉表の計らいにより新野に軍を駐屯。甘夫人が阿斗(後の劉禅)を産むなど、しばらく平穏な日々を送っていました。しかし、その頃になると荊州に跡継ぎ問題が浮上。困りかねた劉表が劉備を荊州に招いて意見を聞くと、劉備は古の例えを説いて劉表と先妻の子である劉gを推挙しました。後妻の子・劉jを後押しする蔡瑁(さいぼう)は、これを聞いて憤怒。劉備を宴会に招いて、その席で暗殺しようと試みます。しかし、この陰謀を察知した伊籍が劉備にこれを忠告。劉備はかつて伊籍に乗り手に不幸をもたらす凶馬と評され、扱わないよう勧められていた的盧(てきろ)に跨って脱出を図ります。しかし、途中で激しい渓流にぶつかり、後ろからは蔡瑁の追手が迫り、絶体絶命の危機に陥ってしまったのです。もはやこれまでかと思われたその瞬間、その的盧が激流に飛び込み、それを見事泳いで渡ったのです。これにより、劉備はその危機を脱出。凶馬と評されても、馬に人生を変える力はないとその馬を不憫に思った劉備の思いやりが、彼自身の命を救うことになったのでした。劉備はその道中、とある田舎で水鏡先生と称されている大学者・司馬徽の屋敷を訪れます。そこで劉備は、天下の情勢を把握し、敵の策謀を読み、その時その時に臨機応変に対応できる人物、つまり軍師の存在が欠けていることを知らされるのです。さらに司馬徽は伏竜鳳雛と称されている英才の持ち主の存在をほのめかしました。劉備はその人物の名を問いましたが司馬徽はこれに答えず、追手が迫らないうちに、と劉備を新野に帰したのでした。

 しばらくして後、劉備は新野の城下にて不思議な詩を詠い歩く男に声をかけ、自宅に招きます。その男は自分を単福(ぜんふく)と名乗り、主君を求め歩いてここにやってきたのだと答えました。単福の才能は、劉備が彼に軍事訓練を指揮させてから目に見えて顕れだし、諸将は己の手足のように兵を指揮してみせる単福の采配を見て驚いたのでした。この頃、荊州近くの樊城(はんじょう)で南方進出を目論んでいた曹操の従弟・曹仁は、劉備が訓練を開始したと知ってすぐさま新野に攻め込みます。しかし単福の計略に掛かって曹操軍は総崩れ。怒った曹仁は李典の諌めも聞かずに徹底抗戦を主張し、自慢の陣形である八門金鎖の陣を敷いて劉備軍に備えます。しかし、単福は陣の中央に弱点を発見。ここに趙雲を突撃させて、この陣を見事崩したのです。ここに劉備が総攻撃を命じ、敵を撃退したのでした。さらに単福は、夜襲を仕掛けて逆襲しようと企てた曹仁の計略を見破り、逆に敵を騙し討ちします。驚いた曹仁は僅かな手勢を引き連れ、這這の体で樊城に戻りました。しかしここも単福の計略によって関羽に落とされていたのです。こうして完膚無きまでに叩きのめされた曹仁は許昌に逃げ帰り、劉備軍は意気揚々と新野へ凱旋を果たしたのでした。たった一人の軍師の存在が、ここまで戦局を左右する。劉備は自分に欠けていた存在を、ここではっきりと認知したのでした。

三顧の礼

 曹操は、曹仁ほどの将を叩きのめした単福という男に興味をそそられました。程cはこの人物について詳細を知っていて、単福は世を忍ぶ名前で本名は徐庶、若い頃友人の仇討ちに加担して捕まり、その後逃走して司馬徽の門下になったなどと説明。さらに自分の何倍もの実力者であると聞いて、曹操は徐庶の母を許昌に呼び寄せ、息子を軍師として招きたいので、逆賊・劉備のもとから立ち去るよう手紙を書いてくれと依頼します。しかし、その母は曹操こそ帝を傀儡にして権勢を欲しいままにしている逆賊であるとしてこれを辞退。怒った曹操はその母を打ち首にするよう命じましたが、程cの進言に従ってこれを思い止まり、その身柄を許昌の屋敷に幽閉させました。程cは毎日のように、この母に山海の珍味や極上の反物などを献上。義理堅い母は、その都度返礼の書をしたためました。そして、程cはこの筆跡を真似て偽手紙を書き、徐庶のもとに送ったのでした。これを見て、徐庶は母親の不憫を嘆き、劉備に隆中に住む大賢者・諸葛亮孔明のもとを訪問するよう伝えて暇乞いをしたのでした。徐庶は許昌に赴くと、曹操の歓迎はそっちのけで、すぐさま母の居場所を訪ねました。しかし、母は偽手紙に騙されて帰ってきた徐庶を見て憤怒。首を吊って死んでしまったのです。徐庶は自分の愚かさを呪い、母の亡骸をその地に葬り、その隣に小屋を建てて喪に服したのでした。曹操は徐庶の登用には失敗したが、劉備のもとから離れさせることができたと喜び、すぐさま南征の準備に取り掛かりました。

 一方の劉備は、徐庶が教えてくれた隆中の賢者・諸葛亮について、司馬徽に話を聞くことにしました。司馬徽は孔明を希代の策士であると称し、かの太公望張良にも優るとも劣らない人物だと付け加えました。しかし、それだけに滅多なことでは動かない男だと忠告をします。これによって、劉備は自分自ら隆中に赴くことを決意し、司馬徽と別れました。しかしその別れ際、司馬徽は「伏竜 主を得たりも その時を得ず」と一人呟きました。彼は、孔明は主・劉備を得たが、天の時を得ることはできなかったかと残念がったのです。そして、この言葉は劉備の死後、孔明の宿敵となるある人物の登場により現実のものとなっていくのです。それはさておき、劉備・関羽・張飛は早速隆中に赴き、孔明の屋敷を訪れました。しかし、その時孔明は不在であり、劉備はその屋敷の使いの子に自分が来たことを伝えてくれるよう依頼。そのままそこを立ち去りました。数日後、人をやって確かめてみると、孔明が在宅中だということが判明。これを聞いた劉備はすぐさま隆中に向かいました。折しも天候は大雪。劉備らは苦労の末に、孔明の屋敷に到着します。しかし、そこに現れたのは孔明の弟・均でした。劉備は彼に孔明の居場所を問うと、兄は今友人に誘われてどこかに遠出をしていると答え、兄が帰ってきたら、そちらへ向かわせると付け足しました。劉備はこの申し出を断り、孔明に自分の気持ちを綴った書状を残して、失意のまま新野へと戻っていったのでした。

 年は明けて、翌208年。曹操が遂に三公(司徒・司公・大尉という朝政最高の位にある三つの官職)を廃して、自ら丞相(帝を補佐して国政を司る大臣職)を名乗りました。これにより、僅かながらも残っていた朝廷の権力は消失し、全て曹操の思うがままとなったのです。劉備はこれを聞いて、曹操が南征を開始するのも時間の問題だと察知。三度目の孔明訪問を決意します。そして、この訪問で遂に孔明と面会することが叶ったのです。孔明は劉備を庵の中へ誘うと、劉備は民の現状を説き、今まで大志を持ってしても敵を倒すことができず、それを成すためには孔明の知略が必要だといったことを説明。そして、その劉備の熱心な態度に孔明は心を打たれ、劉備に秘策を与えるのです。まず孔明は、劉備に荊州を根拠地にして江東の孫権と組み、北の曹操に対抗するよう進言。そして、いずれ機会を見て益州へ侵攻。曹操には魏を与えて天の時を、孫権には呉を与えて地の利を、そして劉備は蜀を治めて人の和を結び、天下を三分するよう説いたのです。劉備はこの天下三分の計に孔明の知略の深さを知り、軍師として自分を導いてくれるよう嘆願。孔明は自分はそれほどの器ではないとそれを断りましたが、それを聞いた劉備が孔明の力を得ずしては漢室は滅んだも同然、民の嘆きは続くばかりだと涙を流します。この態度に、孔明は劉備の純粋さと憂国の情に気付いて深い感銘を受け、劉備に付き従うことを決意したのです。これが、後に水魚の交わりとして知られる劉備と孔明の出会いでした。劉備四十七歳、孔明二十七歳のことでした。

孔明の初陣

 劉備が孔明を得てすぐのこと、江東の孫権が宿敵・劉表を打倒すべく江夏に怒涛の如く侵攻を開始し、見事これを打ち破りました。この報を聞いた曹操は、荊州が浮き足立っている隙に劉備を打ち倒そうと考え、夏侯惇に十万の軍勢を与えて新野へ侵攻させます。これを知って動揺する劉備たちを孔明がなだめ、彼は諸将に矢継ぎ早に指示を下していきます。関羽・張飛は孔明の策に半信半疑の念を抱きながらも出陣します。まず趙雲が夏侯惇に襲い掛かります。しかし僅か数合打ち合うと、すぐさま退却。夏侯惇が勢いに乗ってこれを追撃すると、趙雲は引き返してこれと打ち合う。これを繰り返して、敵を奥地へと誘き寄せます。そこに劉備の伏兵が現れ、夏侯惇の軍勢に襲い掛かります。しかし、数で勝る夏侯惇の軍勢はこれを容易く撃破。夏侯惇は孔明を実戦経験のない青二才だと笑って、一気に新野へと向かいます。しかし、その途中にある安林に夏侯惇の軍勢が通りがかると、そこで待ち伏せしていた関羽・張飛が火攻めを仕掛けてこれを急襲。驚いた夏侯惇は、燃え盛る炎と敵の軍勢に行く手を阻まれながらもなんとかそこを脱出。一路博望坂へと向かいます。しかしここでも劉備の軍勢に待ち伏せされており、夏侯惇の軍勢は敵の総攻撃によって壊滅状態。夏侯惇は命からがら許昌に逃げ帰ったのでした。こうして十万の兵が孔明の策によって殲滅され、劉備の諸将は孔明の知略の偉大さを知ったのです。これを知った曹操は、自ら荊州に乗り込んで南方を制圧することを決意。曹仁・曹洪を一番手、張遼・張コウを二番手、夏侯淵・夏侯惇を三番手、于禁・李典を四番手、そして五番手を曹操が指揮して総勢五十万の軍勢が許昌を出発したのです。

 その頃、荊州では異変が起こっていました。かねてより病床にあった荊州刺史・劉表が亡くなってしまったのです。劉表は生前、劉備の進言に従って長男・劉gを跡継ぎにするよう遺言状を書き残していました。しかし、これを知った蔡瑁はその遺言状を破り捨て、偽の遺言状を作らせて次男・劉jを跡継ぎにしてしまったのです。さらに蔡瑁は荊州に侵攻してきた曹操の軍勢に和睦の使者を送り、曹操の軍門に下りました。孔明はこの機に乗じて荊州を奪うよう劉備に進言しますが、劉備は世話になった劉表の領土を奪い取ることは仁義にもとるとこれを渋ります。そうしているうちに、曹操の軍勢は新野へと怒涛の勢いで進軍を開始しました。孔明はただちに策を練ると諸将に指示を下して、劉備軍は出陣します。その日の夕刻近く、曹操の先鋒である曹仁・曹洪の部隊が新野に到着しました。彼等は新野の城門が開け放たれているのを見て、劉備の軍勢が民衆と共に逃げ出したのだと判断。風の強い今夜をここで過ごし、翌朝劉備の軍勢を追撃することにしたのです。はたしてその夜、城の各地から火の手があがったのです。孔明の指示により待機していた趙雲が仕掛けたものでした。炎は風に煽られ、たちまち城内は火の海と化します。慌てた曹仁と曹洪は、軍勢を引き連れて火の手が回っていない東門から脱出。しかし、趙雲の伏兵がこれに襲い掛かり、敵は大混乱に陥ります。曹仁と曹洪はなんとか白河まで逃げ延びます。しかし、この河の上流には関羽が待機していました。関羽は下流で兵馬の声を聞くと白河の堰を切り、曹仁らの軍勢を河水で押し流します。曹仁と曹洪が這這の体で岸に上がると、なんとそこには張飛の軍勢が待ち構えていました。張飛はこの軍勢に総攻撃を仕掛け、劉備軍は完勝を収めることに成功したのです。こうして白河の岸に集結した劉備たちは、孔明の用意した船に民衆と共に乗船し、一路樊城へと向かいました。

長坂坡の戦い

 曹操は、またしても孔明によって曹仁らが敗走したことを知って憤慨。樊城からさらに江陵へ向かって進軍している劉備軍を追うべく、精鋭五千騎を率いて曹操自ら出陣しました。その頃、劉備は民衆と共に行軍していたため、敵の追撃を受ける前にと関羽と孔明を江夏にいる劉gのもとに遣わして、援軍を求めていました。しかし、曹操の率いる精鋭はすぐに劉備の一行に追いつき、その陣を夜襲します。多くの兵と民衆が曹操軍に襲撃される中、劉備は張飛の助けで何とかそこを脱出。僅かの部下と共に落ち延びます。劉備がこれを嘆く最中、一人の男がまだ曹操軍の中で奮戦していました。趙雲子龍その人です。趙雲は夜襲の混乱の中で見失った糜夫人と阿斗を捜していたのです。趙雲は何とか阿斗を抱きかかえている夫人を見つけ出しますが、夫人は立つこともままならないほどの重傷を負っていました。夫人は阿斗を趙雲に託すと、自らは古井戸の中に身を投じてしまったのでした。趙雲はこれを大いに嘆き、阿斗を守って劉備のもとに届けると決意。再び単騎で曹操軍に突入し、奮戦してその囲みを破ります。その頃、趙雲が曹操軍の方に向かっていったとの報を聞いて、趙雲が裏切ったのだと勘違いした張飛は、長坂橋で彼を待ち構えていました。しかし趙雲が阿斗を連れて戻ってくると事の成り行きが判明し、趙雲を劉備のもとへ向かわせ、自身はその橋で曹操の追手を待ち構えました。かつて曹操は、関羽から張飛が一騎当千の猛者であると聞いていたので、それ以上の追撃を控えました。しかし張飛が橋を焼き落としたのを見て、この先には孔明の策がないと判断。急いで橋を架けて、漢津に向かった劉備軍を追撃します。しかしまさにその時、孔明の指示で漢津に待機していた関羽と江夏の兵一万が前方に姿を現したのです。曹操はこれを見て深入りは禁物だと察知。軍を引き揚げたのでした。関羽と合流した劉備一行は、漢津の渡しに用意されていた船に乗って江陵へ向かいます。その途中、江夏から現れた劉gの水軍と合流。行き先を江陵から、守りの堅い江夏へと変更します。そして最後に夏口の兵を乗せた孔明の船団と合流。ばらばらになった劉備軍は再び一緒になり、一路江夏へと向かったのでした。

確認クイズ

@劉備の命を救った、当HPの代名詞としても知られる、素晴らしい英雄の名前は何?

伊籍結石狼藉   正解はこちら

A劉備に軍師の必要性を説いた人物とは誰?

酔狂先生司馬司馬懿   正解はこちら

B劉備が孔明を迎えるために三度も隆中へ赴いたことを何と呼ぶ?

三度の礼三個の礼三顧の礼   正解はこちら