劉備と曹操
曹操は徐州を落とすと、その土地を自分のものにしようと企み、部下の車冑を徐州刺史に任じて劉備を許昌に招きました。劉備はこれを曹操の姦計と知りつつも、時節到来を待つことにして許昌へ向かいました。曹操は劉備と共に献帝に拝謁。ここで劉備が漢王室の末裔だということが知らされます。つまり、劉備は献帝の叔父にあたるのです。曹操はこれに衝撃を受け、誰がこの国で一番の権威を持っているのかを知らしめるため、献帝を誘って巻狩を行います。そこで曹操は、こともあろうに帝の矢を使って獲物を射たのです。そして、その矢を見て帝が射たと勘違いして拍手を送る衆に向かって曹操は立ちはだかり、その拍手を一身に受けたのです。帝の威光を無視して自分の力を誇示させた、曹操の巧妙な作戦でした。これを見た関羽は憤怒。危うく剣を抜くところでしたが、劉備がそれを必死に止めて、逆に曹操に祝辞を述べました。ここで乱闘になり、帝にもしものことがあれば大変なことになると考えたからでした。
しかし、献帝がこれを黙って見過ごすはずはありませんでした。帝は腹心の董承に曹操暗殺の詔勅を送ったのです。この董承という男は、以前洛陽で不遇な日々を過ごしていた帝に、曹操に助けを求めるよう推挙した人物です。しかし、いざ曹操が帝を擁立すると横暴な振る舞いをするばかりで、董承は密かにこれを後悔していたのです。彼はこの詔勅を受け取ると、早速腹心を集めて連判状を作成。一同、これに署名しました。そして西涼の太守・馬騰も味方に組み込み、さらに劉備にも署名を依頼。劉備はこれを快諾し、連判状に名を連ねたのです。一方の曹操は董承と劉備の不穏な動きを敏感に察知し、劉備を招いてこれを調査しました。曹操は、この世に英雄と呼べるものは二人だけ、胸に大志を抱き、腹中に深謀を秘め、天地を呑み込まんとする者、つまり自分と劉備だと語ります。劉備は腹中に深謀を秘めという言葉にはっとして、持っていた箸を落としてしまいます。曹操がこれを見逃すはずはありません。劉備は何か誤魔化さなければまずいと考え、雷鳴が轟くと同時に大声を上げてしゃがみこみました。さすがの曹操もこれには唖然として、いかがしたと問います。劉備は、小さい頃から雷だけは苦手なのだと弁解。曹操は声を上げて笑ったのです。こうして劉備は何とか怪しまれずに危機を回避したのです。しばらくして、また曹操に招かれて話を聞くと、劉備の恩人・公孫[王贊]が袁紹に敗れて自害したとのことでした。劉備はそれを知って深く悲しむと同時に、一計を思いつきました。劉備は袁紹と合流して勢力を保とうと画策している袁術を攻略して袁一門を倒すことで、公孫[王贊]の仇を討ちたいと曹操に申し出たのです。曹操は、劉備が近くにいるとどうも動きが取りにくいと考えていた最中のことだったので、この申し出を快諾。見張りとして朱霊と路昭を随行させて五万の兵を与え、徐州に向かわせました。これにより、劉備は晴れて許昌を出ることができたのです。
袁術の死
劉備は徐州に帰還すると、すぐさま袁術討伐の準備を始めました。徐州を治める曹操の将・車冑と友好的に付き合い袁術の動向を探ったのです。ところで袁術ですが、彼は淮南での戦いの後、曹操らが追撃してこないのを知って安堵。しばらくの間、酒池肉林の生活に溺れていたのです。しかし、その生活も長くは続きませんでした。その生活費を維持するために民衆に重税を課していたのが災いし、それに嫌気が差した者たちが次々と袁術の領地から去っていったのです。袁術は切羽詰り、皇位を返上して玉璽を渡すという約束で、従兄の袁紹の領地に移ることを決意したのです。そしてその夏、袁術は金銀財宝・一族郎党を引き連れて袁紹のもとへと大移動を開始したのです。この報はすぐさま劉備の知るところとなり、劉備の軍勢は大挙して徐州を出陣。袁術の一行に攻めかかります。袁術軍の猛者・紀霊がこれに対抗しますが、張飛の一撃を受けて戦死。総崩れとなった袁術軍は、その後も山賊の追撃にあって追い詰められ、這這の体で江亭に逃げ込みます。しかし、そこには食糧はおろか水も枯れ果てており、人々は次々と倒れていきました。そして袁術も、一斗(約18g)の血を吐いて絶命。ここに偽帝と称された袁術も三国志の舞台から消え失せたのです。
袁紹の南下
袁術死すの報を受け、さらに玉璽をも入手した曹操は大いに喜びました。しかし、劉備は徐州に帰還すると、曹操から預かった五万の兵をそこに残して、朱霊と路昭を許昌に帰らせたのです。これに激怒した曹操は、荀ケの策に従って車冑に劉備暗殺の密使を送ります。しかし、これを知った陳登が、城外で巡察をしていた関羽・張飛に事の次第を通告。上手く徐州城に侵入して、逆に車冑を殺害してしまったのです。後から帰還してきた劉備は、これを知って顔面蒼白となりました。これで曹操を完全に敵に回したことになったからです。そこで陳登は劉備に一計を授けます。それは袁紹を出陣させて、曹操に当たらせるというものでした。しかし、劉備は袁術を征討したばかり。そこで陳登は、鄭玄(ていげん)という男を仲介に立てたのです。鄭玄は、かつて劉備に学問を指導したこともあり、さらには袁紹と顔馴染み、加えて人望の高い人物でした。まさに仲介役に打って付けだったのです。この策は功を奏し、袁紹はこれを承知して三十万の大軍を南下させます。これに怒った曹操は、まず裏切り者の劉備を倒そうと劉岱・王忠に五万の兵を授け、徐州に向けて出陣させました。しかし、この二将は所詮関羽・張飛の相手ではなく、たちまち生け捕られてしまいました。劉備はこの二将を丁重にもてなし、車冑を討ったのは自分の命を狙おうとしたためで曹操殿に敵意はござらん、と弁明。そのことを宜しく伝えてくれと残して解放させたのです。曹操はこれを聞いてさらに激怒、自ら徐州に侵攻しようと考えましたが、荀ケの諌めに従って断念。袁紹に対抗するべく、黄河に大軍を派遣して官渡の守りを固めたのです。さらに、曹操を幾度となく悩ませた張[糸肅]に和睦の使者を派遣。張[糸肅]の参謀・賈[言羽]がこれに賛同し、張[糸肅]は遂に曹操に帰順したのでした。こうして後顧の憂いをなくした曹操は、黄河を挟んで袁紹と睨み合いました。しかし、両軍共に動き出そうとはしませんでした。一方、劉備は曹操の来襲に備えて家族を下ヒに移して関羽に守らせ、徐州の守備を孫乾に任せ、自身は張飛と共に小沛に籠もって様子を見守ることにしました。
密詔発覚
年は明けて、翌200年。曹操暗殺の密詔を帯びていた董承は、なかなかその機会に恵まれず思い悩んでいました。それが災いして董承は頭痛を発し、医者の吉平を自宅に呼びました。しかし、薬を飲んで眠った董承は寝言で曹操覚悟とわめき、それを吉平に聞かれてしまったのです。董承は眠りから覚めてそれに気付き、血の気を失いました。しかし、この吉平も実は董承と同じく帝を憂える人物だったのです。そして、なかなか自分を信用してはくれない董承の前で吉平は自分の小指を噛み千切り、その忠誠心をみせたのでした。これに感服した董承は、彼を連判状に署名させました。そして吉平は曹操にも薬を所望される医師だったので、その薬に毒を混ぜておくと約束。董承は大計ここになれりと大いに喜び、吉平に感謝したのでした。しかし、ここで思いも寄らない事件が起こりました。董承の下僕であった慶童という男が、董承の妾と付き合っていることが発覚。激怒した董承は、彼に棒罰を加えたのでした。しかしその夜、恨んだ慶童は董承の屋敷から逃走。曹操に面会して、水面下で暗殺計画が進行していることを密告してしまったのです。これを知った曹操は、頭痛がすると偽って吉平を呼んで捕縛。董承の屋敷へ押し込んで、密詔と連判状を発見します。こうして、董承の腹心や一族はことごとく斬刑に処されたのです。連判状が露見されたと知った劉備は、いよいよ曹操の矛先がこちらに向くであろうと覚悟。全力をあげて戦うことを決意したのです。
徐州陥落
曹操は董承の件で献帝を廃位させようと考えましたが、程cの諌めに従ってそれを思い止まり、計画に加担していた劉備を討伐することを決意。袁紹が打って出てこない隙をついて、二十万の大軍を率いて徐州に進撃を開始したのです。劉備はすぐさま袁紹に援軍を求めました。しかし、袁紹は子供の急病で派兵はできないと断り、万が一のことがあれば冀州に来いと答えるのみでした。劉備は困惑しますが、張飛の策に従って曹操の軍勢に夜襲をかけることを画策し、城外に軍を待機させました。しかし曹操はこれを見破り、逆に劉備軍を奇襲させたのです。この混乱で劉備と張飛は離れ離れとなり、小沛の城もあっけなく陥落。劉備は冀州に向かって馬を走らせ、張飛は芒[石昜]山(ぼうとうざん)に落ち延びていきました。曹操は勢いに乗って徐州城を攻撃、たまらず孫乾らは逃走し、ここも曹操の手に落ちました。さらに劉備の家族を守って下ヒに籠もっていた関羽を、程cが巧みな計略で山に追い詰め、それを張遼が上手く説得して説き伏せ、劉備の居場所が判明するまではという条件で曹操の軍門に降らせたのです。ここに徐州は完全に曹操の手中に収まったのでした。
確認クイズ
@献帝から曹操暗殺の詔勅を授かった人物は誰?
A曹操暗殺計画が露見してしまった理由は何?
B曹操軍に取り囲まれた関羽は何を決断した?