魏功臣列伝
※旧『盲夏侯亭』(当館副管理人・夏侯惇氏が運営)のコンテンツです。 |
![]() ?〜AD220 |
||||||||||
外交、内政、軍略、戦全てに身一つでこなした魏の最大の功臣。 いわずと知れた盲夏侯。誰がなんと言おうと魏の創設期最大の功臣。 隻眼の大将軍。(三国演義で矢の刺さった左目を食べる話は余りにも有名) 沛国の人。主君曹操の従兄弟。前漢の夏侯嬰の子孫でもある。 漢の前将軍。魏の大将軍。 考察 私評 |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|
![]() AD174〜229 |
||||||||||
地味でありながらも着実且つ過ち無く政務をこなす。 賈充の父。晋の賈皇后の祖父。 幼少より兵法数万を暗記した地方官を歴任した。 河東郡の官吏として働いていたとき、袁譚の部将の郭援が河東に攻め寄せた。 賈逵は篭城防戦したが、河東の長老たちが賈逵を殺さないという約束を郭援に取り付けた止む無く開城する。 その後郭援は賈逵を召し抱えようとして脅したが賈逵は全く応じなかった為に郭援は賈逵を殺そうとした。 しかし官吏や住民たちが総出で賈逵の助命嘆願を訴えたので処刑を免れる事が出来た。 また高幹が并州で反乱を起こした時も城を死守した。 祖父の死後官職を退くが、後に曹操に召し出されて仕える。 曹操の馬超討伐に際し、弘農太守に抜擢され見事期待に応えた。 漢中での劉備征討戦にも同行した。 曹操の死後葬儀を取り仕切り、そして曹彰の無礼を厳しくいさめた。 曹丕が帝位に即くと豫州刺史に任命され法を正し、呉に備えた。 運河や貯水池等の大規模灌漑工事も始めた。 侵攻してきた呉の呂範の軍を破った。 曹叡の時代には満寵、胡質を率いて西陽から出陣し、別働隊の曹休や、司馬懿と共に三方から呉を攻めようとした。 曹休は呉の計略にのり敵地深く進入したが賈逵は曹休の敗戦を予想して対処したため、 敗走した曹休軍は無事に帰還することが出来た。 呉の策謀を見抜いたり、反乱を鎮圧したり、魏の風紀を正したりと、名将にして為政者としても抜群の感覚を持つ人物。 初めは純然たる漢臣だったが、祖父の死をきっかけに引退し、曹操の招きにより魏に仕えた出処進退を弁えた人。 あと、余談だが日本に賈逵の著書があるらしい。 |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|
![]() ?〜AD242 |
||||||||||
法に厳しく、外敵にはもっと厳しい鉄壁の魏の番人。 山陽郡昌邑の人。 曹操のもとで汝南太守となり、汝南付近20もの支城を500騎で占領した。 袁紹軍を攪乱し曹操軍を有利に導いた。 後に樊城で曹仁と共に関羽を退けたのは有名。 その後、新合肥城を作り呉を幾度も撃退した、張遼に匹敵する名将にして能吏かつ法家。 スーパープレイヤー。イチローみたいな男。 |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|
![]() |
||||||||||
書聖にして蕭何の才を持つ魏の元勲。 中国史上五本の指に入る書家。 楷書か隷書か草書か行書かは忘れたが、とにかく一つの書体を確立したとも言われる。(その為に、普通に三国志読んだ人より書道家の人に知られている。) 意外と無視されがちだが、この人物は超優秀で、韓遂と馬騰が仲たがいしたのを巧く取り持って関中の騒乱をまとめたり、更には彼等を使って袁紹の甥である高幹を攻撃させたりした。 外交能力もさることながら、どんなに厳しい状況でも兵糧や軍馬などの軍需物資を欠かした事は無く、曹操から絶賛された。(郭援の時も功あり) のち、臣としては最高位の太傅の位を賜った。 鐘会は彼が七十歳の時作った息子。 絶倫ぶりもさることながら、そんな年齢の時の腐りかけた精子で天才児が生れるのもびっくりするw 天才とは平常では生れない事がここでも立証されたw |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|
![]() |
||||||||||
大略と誠実さを以って魏を設計した悲劇の大賢人。 三国時代最も逸材を輩出した潁川郡の潁陰の人。 もはや言うまでも無い人ですね。 三国志中、1、2をあらそう王佐の才。 演義の孔明のような人。 曹操より若干、考え方に儒教色が濃い為不幸を招いた人。 大局をよみ、すぐれた構想を練ることに関しては本当に三国一。 人材の有用性を知る事、天下1、2。 帝を奉戴する事の重要性を誰よりも具体的に献策した。 呂布、袁紹との戦いにおいても、どんなに厳しい状況でも曹操が勝つことを分かっており、敵の綻びを見抜き献策した。 劉備が只者では無い事を真っ先に気付いた。 …彼は天下を構想する事において第一人者といえる。(正に王佐の才である) 大局を見通せて決して判断を誤らない参謀は、武勇に優れた将軍が100人いるよりも頼もしい。 この人がいるといないのとで勝敗が決まるといっても過言ではないほど優れた人で、錚錚たるメンバーから人物を絶賛されている。 特に司馬懿は「荀令君は、古今希に見る逸材で同じ過ちを二度繰り返さない大賢人。もはや現世には二度とは現れまい。」と評している。(演義での孔明に対して言った台詞に似ているw) まず本人の素晴らしさもさることながら、彼が推挙した人材は粒揃いで優秀でしかも物凄い数w 名門の清流派知識人ネットワークという目に見えない巨大な力を持つ実力者でもある。(彼がスカウトした人は、郭嘉、荀攸、程c、鐘ヨウ、任峻、呂虔、劉曄、司馬懿…ほか多数とまさに人材の芋づる式) また彼は容貌も美しく、流行の最先端をいっていたと言われている。 私評 |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|
![]() |
||||||||||
何で嫌うの、我が主君よ。苦労人型名将。 自ら望んで袁紹から曹操に乗り換えた、プチ荀ケw なぜか曹操に嫌われまくるが、実は名将。 当初、その軍を没収され于禁の軍に組み込まれ、彼自身も于禁の配下にさせられるが、辛抱し馬超戦や漢中戦で大活躍。 ようやく横海将軍に任命される。 曹丕とは相性がよいらしく最後に後将軍になる。 威侯と諡も追贈される。 私評 |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|
![]() |
||||||||||
最後に勝った者が勝利者なのは当たり前。現実主義者の軍師。 こちらは前述の荀ケとは対照的に人肉混入や協調性ゼロや過激派清流派として有名な参謀w 脳内猛将とでもいおうかw 彼の真骨頂は篭城戦であろうか。 呂布との戦いにおいても東ア城に立てこもり、兵糧に人肉を混ぜはしたものの、よく領民を纏めこれを撃退し、官渡の戦においてもわずか数百の兵でも陽動やハッタリで袁軍を寄せ付けなかった。 劉備の危険性を見抜いたり、呂布にとどめを刺すことをしたり、随所でキレのいい知能を披露している。 身長は190cmを超え、立派な髭をしていた事から外見は関羽に似ているかもw 強情でいつも他人と衝突していたが(強情なところも似ているなw)、ある日誰かが彼を謀反を企んでると讒言するが、曹操は取り合わなかったという。 さすがは魏の君臣である。(これが孫権だったらどうだったであろうか) |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|
![]() |
||||||||||
地方官を歴任し、大都市長安の知事である京兆尹に任命される。 内政の鬼。 大体鐘ヨウと同じような経歴の持ち主w |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|
![]() AD171〜217 |
||||||||||
河内郡の人。 司馬懿の兄。 動乱の為に、それなりの家柄にありながら、若くして身一つで家長として司馬家一門を養った。 曹操に仕官し地方官を歴任した能吏。 彼は屯田制の荘園化を危惧して献策したが聞き入れられず、曹氏の弱体化を招く結果となった。 後に只の屯田官がやがてその地の領主に近い立場になり、魏の貴族化、王室の弱体化に拍車をかけたが、彼は正にこの事をを危惧していたのである。(魏が貴族化しその結果、荘園を持つ最大の勢力が、司馬一族になったのは余りにも皮肉な結果である。そして莫大な実利に加え、強力な軍権まで手に入れた司馬氏はやがて新たな王朝を作るに至る) 夏侯惇とともに呉を征討した際に病死した。 「君は優秀な人だが弟には逆立ちしたって勝てない」とまで言われた苦労に割りに報われなかった人。 ああ、どうしてかように心ある人を天は粗末に扱うのであろうか! 私評 |
||||||||||
某が付けるコーエー的能力値
|