孫策の挙兵
その頃、袁術の治める淮南で一人の男が動き出そうとしていました。彼の名は孫策。反董卓連合で先陣を務めた、長沙太守・孫堅の子供です。孫堅は因縁の敵であった荊州の刺史・劉表と争って、その戦で敵の計略に掛かり命を落としていたのです。その子・孫策は偉大なる指導者であった父を失い、やむなく袁術の食客となっていました。しかし、前々から孫一門の旗揚げを考えていた孫策は遂に挙兵を決意したのです。まず孫策は、丹陽の太守で劉ヨウの脅威に晒されている叔父を助けるとして、袁術に兵の借用を申し入れました。しかし袁術は孫策が挙兵して独立するのではないかと懸念しました。そこで孫策は、あの伝国の玉璽を袁術のもとに置いていくと申し出たのです。袁術はその玉璽で頭がいっぱいになり、孫策に兵三千・軍馬五百騎を与えて出陣させました。
孫策のもとには、孫堅の時代から付き従う程普・黄蓋などの将軍、そして義兄弟の契りを結んでいた周瑜などが集まり、その士気は高まるばかり。さらには周瑜の進言に従い、江東の二張と謳われた張昭・張紘らを参謀に加え、怒涛の勢いで劉ヨウの領土へ侵入します。迎え撃ってきた張英軍に苦戦を強いられるも、盗賊の蒋欽と周泰の協力により見事敵を粉砕。怒った劉ヨウが大軍を率いて神亭山の麓に布陣すると、孫策は敵の本拠地である曲阿を襲撃。浮き足立った劉ヨウ軍に総攻撃を仕掛け、勝利を収めます。そして、その勢いに乗じて敵の城を陥落させ劉ヨウを滅ぼしたのでした。敵将・太史慈(たいしじ)を説得して味方に加えると、孫策はさらに江東の奥深くまで攻め込みます。呉郡で東呉の徳王を自称していた厳白虎は孫策と一戦を交えるも、その強さに恐れをなして城を放棄。会稽(かいけい)の太守・王朗と共に孫策に対抗します。しかし、孫策の計略に騙されて兵糧基地を奪い取られ、慌てて出撃したところを伏兵に襲われた厳白虎・王朗軍は壊滅し、両名は城を棄てて逃げ延びていったのです。ここに江東の肥沃な大地が孫策の手中に収まり、民衆は彼を孫郎と呼んで敬うようになりました。
徐州脱出
その頃、袁術は呂布と劉備が再び徐州で一緒になったことを悔やんでいました。そこで袁術は部下の進言を聞き入れ、呂布に金銀財宝を与えて彼を手なずけ、その隙に劉備を撃破せんと紀霊を総大将に立てて徐州に攻め込ませたのです。しかし呂布はこの策を見破り、さらに劉備が倒されることになれば、この徐州も狙われることになると推測。呂布は一計を案じました。まず、呂布は劉備と紀霊の双方に使者を出し、呂布の陣地へ来るよう勧めました。劉備と紀霊は、呂布の陣中で不意に顔を合わすことになり、両者とも驚愕。双方剣を抜いて構えたところを呂布が大喝。部下に戟を持ってこさせて、それを遠く離れた場所に突き刺しました。呂布は笑みを浮かべて、私は戦が好きではない、ゆえにもし私がここから矢を放ち、あの戟に当てたなら、天命と思って軍を引き揚げてくれ、と提案。さすがに紀霊もあそこまで遠い場所にある戟を射抜くことはできまいと判断し、これを承知。劉備は逆に呂布の弓術を頼みに、その申し出を承諾しました。果たして、呂布は見事一矢でその戟を射当てました。紀霊は無言のまま淮南に引き揚げていきました。
これに激怒した袁術は、さらなる策を打ち出します。袁術は、呂布に金銀財宝を送りつけると共に、呂布の娘と袁術の息子との婚約を勧める書状をしたためました。近々皇帝を僭称すると噂されていた袁術の息子ゆえに、呂布はこれに応じようとしました。しかし陳珪(ちんけい)という智者が、これは呂布の娘を質に取って劉備を倒すための策だと諌めたため、呂布はこの申し出を拒否しました。二度の失敗に袁術は憤慨するも、それ以上のことはできませんでした。しかし、ここで事態は急変。劉備に苦労を掛けさせることになったのは全て自分のせいだと嘆いた張飛が、覆面をして呂布の配下から軍馬を盗み取ったのです。これを聞いて怒った呂布が軍勢を引き連れて小沛に押し寄せると、劉備は張飛の失態を誤り、軍馬を返すと申し出ます。しかし呂布はそれを聞かず、小沛の城に襲い掛かったのです。劉備は部下の進言に従って曹操のもとへ逃げ延びることを決意。張飛・関羽を先頭に呂布の囲みを突破し、一路許昌へ向かったのでした。一方の曹操は、郭嘉の進言を聞き入れて劉備を歓迎。献帝に豫州(よしゅう)の牧を推挙させて、劉備はとりあえずの落ち着き先を得たのでした。
皇帝僭称
この頃、曹操は帝の奪還を図る張済と甥の張[糸肅](ちょうしゅう)が荊州の劉表と手を組んで許昌に攻め上がると知ってこれに対抗。しかし、敵の参謀・賈[言羽](かく)の奇計に掛かって予想以上の苦戦を強いられ、猛者・典韋や長子・曹昂を失うなど痛手を被りました。そうして、なんとか張済らを撃退した曹操のもとに現れたのは、呂布の臣である陳珪の子・陳登でした。彼は主君・呂布の使いで許昌にやってきましたが、彼自身にもう一つの意義があったのです。彼は、呂布打倒の役目を曹操に買って出たのです。陳親子はもともと徐州太守・陶謙の家臣で、その国を乗っ取った呂布を忌み嫌っていたのです。曹操はこれを聞いて喜び、徐州の件は全て陳親子に任すと約束したのでした。その頃、淮南に異変が起こっていました。玉璽を手にした袁術が、遂に皇帝を僭称したのです。袁術は即位に反対する者をことごとく斬って棄て、天地の神々を祭って皇帝を自称。年号も仲氏と改めて権勢を振るいました。それを済ますと、袁術は宿敵・呂布を討つべく二十万の大軍を徐州へ差し向けたのです。袁術軍は行く先々で略奪を繰り返し、破竹の勢いで徐州に進軍。呂布はその勢いにたじろぎました。ここで陳登が一策を案じます。彼は呂布の許可を得て城を出ると、袁術軍の将・韓暹(かんせん)の陣地へ向かいました。そして上手く彼を丸め込むと袁術軍を内部から撹乱させるよう依頼したのです。この策は功を奏し、袁術軍が混乱したところに呂布が総攻撃を仕掛け、さらに曹操の仲裁により和睦をした劉備軍からは関羽が援軍として駆けつけ、見事敵を撃退したのでした。
淮南の攻防
この戦いで大敗を喫した袁術は、もと客将だった孫策に軍勢の援助を依頼して、呂布に対抗しようと思い付きました。しかし、帝位僭称をする逆賊には手を貸せぬと、孫策はその申し出を一蹴りにしたのです。曹操は袁術が怯んでいる今こそ絶好の好機とみて、孫策に袁術討伐の勅使を送りました。孫策は、南北から挟撃しようと提案して曹操にも援軍を依頼。これに応じた曹操は、劉備・呂布を引き連れて袁術討伐に向かったのです。その数およそ三十万。これに驚いた袁術は、部下の進言に従って淮南を去り、一路淮水へ向かって逃げていきました。淮南の城は、袁術より十万の軍勢を授けられた李豊が守ることになりました。一方の曹操は、北上してくる孫策軍の到着を待たずに淮南へ攻め入ることを決意。劉備を右翼、呂布を左翼、そして中軍を曹操自ら率いて淮南へ突入しました。しかし、敵将・李豊は城門を固く閉ざしたまま一歩も外へ出る気配を見せません。敵は持久戦を狙ったのです。こうなっては大軍を擁する曹操軍は圧倒的に不利な立場となります。そして案の定、兵糧が欠乏しだしたのです。ここで曹操は兵糧奉行に命じて、いつもより一回り小さい升で米を量らしたのです。しかし、これは当然兵士の不満を買うことになりました。そこで曹操はその兵糧奉行を殺してその首を晒し、この者が小升を使って兵糧を隠匿していたと罪をかぶせ、兵士の不満を回避させたのです。しかし、依然兵糧は欠乏しているため、曹操はすぐに総攻撃を開始。怯む兵は斬首に処すと号令して士気を上げ、曹操自ら先陣を切って堀を埋め、城を陥落させたのです。曹操は十分な兵糧を備えるために、逃げた袁術の追撃を中止。そして呂布と相談のうえ、劉備に豫州から小沛へ移ってもらうように指示しました。劉備は曹操の提案が呂布を倒すためのものだと察知してこれに応じ、淮南を去っていきました。
確認クイズ
@袁術から兵馬を借りて江東一帯を制圧した人物は誰?
A袁術は何をもって皇帝を僭称した?