昔日の水面
作・夏侯惇

 廬江郡居巣県…。
ここはかつて、東呉の大都督であった周瑜字を公瑾の領地であった所である。建安の御世も末年に入り、この魏の最南端の領土では、雷緒を初めとした反乱者が相次ぎしばしば、孫権や劉備らと手をくんで魏に対抗する者が続出した。
 夏侯惇の従兄弟、夏侯淵は反乱や異民族の鎮圧において、将に他の追従を許さぬ程のプロフェッショナルであった。そんな彼が曹操の下知を受けるや否や、あっという間に雷緒を撃退し、廬江郡を魏の直轄地にしたのである。
 西暦217年、夏侯惇は長江を挟んで孫権と対峙していた。東呉と曹魏はすでに何度か交戦をしたことがあるが、夏侯惇が対呉戦線に真っ向から参加するのはこれが初めての事であった。赤壁の際も、彼は留守の許昌を守り、少し前の需須江の戦いにおいても曹操軍本隊の副司令官として、常に他の武将達よりも一歩もニ歩も格上の地位にいたからである。
 だが今回は、楊州、徐州、荊州の対呉攻撃部隊、全26部隊もの軍の総司令官として居巣に駐屯している。隻眼で有名な彼であったが、顔や体全体に刻まれた、数え切れない古傷が、久々の実戦の興奮で武者震いと共に疼くのであった。彼は曹操が挙兵した時から従軍し、弱小勢力だった時代を経て今今日の地位に有る。
 傷が物語るように、苛烈な条件での苛烈な戦略をたびたび成功させた曹魏の最大の功労者である。派手な負け戦ばかりが史官たちの印象に残っていたのであろうか、史書では彼の活躍がほとんど見当たらない。だが、彼は元来清廉潔白な性質である。恐らくは功を誇るような真似をしなかったのが、今日歴史書に具体的に彼の戦功が残されていない最大の要因だと思われる。
 彼はこの時、もはや老齢の域に差し掛かっていた。今回、この東呉征伐に一緒に従軍していた軍師の司馬朗は、陣中で既に病没し、臧霸を除けば、彼の初期の活躍を知る者はこの陣中にほとんど居なかった。大半の将校が、魏府が出来てから将になった若者達ばかりであったのである。夏侯惇は年齢のせいもあってか、しみじみと過去を振り返る事が多くなった。
「思えば、戦いにつぐ戦いの半生だったわ…。江南の地も、もう昔の面影も無くすっかり変わってしまったのう…。」
 西暦191年。反董卓を掲げ挙兵した曹操に付き従い、洛陽を焼き払い長安に撤退しようとした董卓を追ってベン水まで追撃したのだが、その時董卓軍きっての猛将徐栄の伏兵にあい、曹操軍は壊滅した。その後、夏侯惇は曹操と共に江南に程近い丹陽で、太守周キンに5000人の兵を借りた事があったのである。当時はまだ漢民族の多い土地では無かった。だが、それから数十年して、かつて共に董卓軍を攻撃した孫堅の次子孫権が、呉を興し、中原の乱を逃れた民衆を受け入れ、その温暖な気候と、天然の要害によってたちまち、人の行き交う豊かな土地となったのであった。夏侯惇は歴史的に稀に見るその成長を目撃したのである。そしてまた彼は思った。
『これ必ずや近い将来、中原に劣らぬ国力を持つ国となろう。その前に孫権をこの地からどうしても引き離さねば我が魏の取り返しのつかない禍根となるであろう…。』と。