いつものように
作・鈴音みつき

 昨日は、久しぶりの洗沐(せんもく、休日のこと)で。疲れてはいたものの、孫は可愛いし。息子達は息子達で、まだまだだと思っていた囲碁の腕を、めっきりと上げていて。平和だと、思った。何時までも、こんな平和な時間が流れれば。それだけで、よかった…。

 それは、別段普通の日だった。洗沐が明けて。今日からまた役所に詰める。役所に向かう大通りを、いつものように通れば。いつものように市が立っていて、明るい活気のある声が飛び込んでくる。馴染みのあるものは、快活に挨拶を交わして。いつものように、この城下は平和だと、張昭は、思った。前の殿がなくなって、わずか7年。…もう、7年。初めは、頼りなく思えた今の殿…孫権殿は…内政が性に合っているのか、わずか7年足らずだが…今のところ国内は大きな戦禍に巻き込まれるでもなく…そう、「いつものように」いたって平和で。それが。どんなに大事か。大切なことか。

 役所に出向けば。すでに決済を待つ竹簡が張昭を待っていて。時折知った顔がやってきて、雑談を交わしたり。時には面倒事を抱えて泣きついて来たり。そうして、別段普通に、次の洗沐の日が来て。そんなことを考えながら、政務室に入ろうとすると。あわただしい足音が聞こえてきた。
足を止めて振り返れば。それは取次ぎの者だった。
「張公、主公が急ぎおいで下さいとの事ですが。」
足早に張昭に近寄ってきた男は、拱手すると、手短に用件を伝えた。さては、何かがあったのかと、張昭は胸のうちに少しの不安を感じた。
「曹操より檄文が届いている。」
孫権のもとに赴けば。初めに見たのは、苦渋を浮かべた表情。失礼をいたします、と一言言って、檄文を一読すれば。そこには、半分は懐柔、そして半分は威嚇とも取れる、文。いわく、―我に降り、江夏の劉備を討つか、それとも呉国を滅亡へと導くか。即刻回報せよ。と。
「これは…」
張昭は、絶句するほかなかった。荊州が争乱に巻き込まれたことは聞き及んでいたものの、この江東の地にまで、その戦禍は及ぶまいと思っていた部分が、確かに自分にはあったから。
「…どう、思う?」
主と仰ぐ人の、苦渋の表情。それとともに張昭の中をよぎるのは、「いつもの」、街。「いつもの」ように、日々があれば、それだけでよかったのに。

 戦禍は、民草の小さな、ささやかな幸せさえも、奪っていく。徐州の大虐殺。そして、前の殿…孫策がこの地を平定するときも。「それ」を、張昭は、間近に見た。「生きる」自由を、奪われた者。「生きていく」術を、失った者。戦禍は、全てを奪う。それを―やっと安定しただろうこの国に、戦禍を呼び込むことが、張昭には耐えられなかった。人々が、やっと心から笑うことが出来始めたというのに。

 「…降伏するのが…よろしいかと存じます。」
思わず。でもはっきりと、張昭は告げた。やはり、主と仰ぐ目の前の人は、苦渋の表情を浮かべたまま。「呉」という国を統べるものとして、耐えがたいものだという事は、間違いない。それでも、勝てはしない戦で…多くの民草が苦しむことを思えば。答えは自ずと出てくる。

降伏。

かの曹操に膝をつけば。少なくとも民は苦しまずに済むだろう。
「…下がってよい…後ほど軍議を開くゆえ…」
心もち力を失ったような声音で、孫権は張昭を下がらせる。苦しんでいるに、違いない。兄である孫策が興したこの地を、みすみす明渡す選択に。

 重苦しい気持ちが、張昭のうちに残る。いつものように、活気のある声が届いて、いつものように、城下は平和で。それが。どれだけ大事か。それが、どんなに大切なのか。何時までも、平和な刻が流れれば、それだけでよかったのに。