董卓の専政
十常侍と何進の両名が消え失せた今、都はしばらく平穏な日々を送れるかに思われました。しかし、この時すでに新たな都の指導者が現れていたのです。少帝らを警護して洛陽に入った董卓です。彼はそのまま都に滞在し、何進軍の残兵十万を無断で自軍に組み込み、三十万の大軍を擁する勢力を築いたのです。董卓は温明園で宴会を開き、諸侯の居並ぶなかでこれを発表、さらに暗愚な少帝を廃して聡明な陳留王を即位させるという提案をします。曹操・袁紹をはじめとするほとんどの諸侯がその強大な軍事力に威圧され、黙ってしまいました。ただ一人、荊州刺史・丁原がこれに反抗しました。彼は董卓を帝に反する逆賊だと罵ります。激怒した董卓が丁原に斬りかかろうとした時、一人の将が無言で立ち上がりました。その将の名は呂布。弓馬の術にかけては天下無双と謳われ、飛将軍の異名をとる豪傑です。その彼が、義父・丁原の護衛をせんと立ちはだかったのです。董卓の参謀・李儒がそれに気付き、危うくそれを止めにかかったので、丁原らも退散。宴会は重苦しい雰囲気に包まれたまま終わりました。宴会が終わっても董卓の怒りは直りませんでした。呂布さえいなければ、自らの思い通りに都を動かせるのです。そこで、李儒が呂布を自軍に取り込むよう進言。董卓の愛馬である赤兎馬を餌にして、見事呂布の引き抜きに成功しました。丁原は呂布に殺され、遂に董卓の前に敵はいなくなりました。彼はすぐに少帝を廃し、何太后共々永安宮に幽閉して暗殺。陳留王を献帝として即位させ、宮廷の権力を掌中に収めたのです。黄巾の乱から五年の月日が過ぎた189年のことでした。
曹操の奔走
都が董卓のものになると、彼の暴虐ぶりはますます顕著なものとなっていきました。祭りをしていた男たちを酒の肴として八つ裂きにしたり、宮中の女を我がものにしたりと、その悪逆非道ぶりは朝廷代々の家臣たちをはじめ、多くの者に反感を抱かせました。都の司徒・王允もその一人でした。彼は曹操など心を同じくする者を自宅に招き、善後策を協議し合います。そして董卓殺害を決意した曹操に、七星の宝剣を授けました。曹操は首尾よく董卓と面会し、呂布が曹操のために名馬を選ぶため部屋から去った瞬間を狙って剣を振りかざしました。しかし、あと少しのところで董卓にばれてしまい、曹操は慌ててその剣を董卓に献上し、呂布が選んだ馬に試乗すると言って、そのまま逃走。董卓から手配書が回って、彼は追われる身となったのです。そして、中牟県(ちゅうぼうけん)の関所で捕まってしまいます。しかし、その関所の県令であった陳宮は曹操から事情を聞くと、その忠義に感激し、共に逃走。曹操の知り合いである呂伯奢(りょはくしゃ)の家に向かいました。しかし、ここで曹操は家の者が自分の命を狙っていると誤解し、彼等を殺害してしまいます。そして、酒を買いに出かけて戻ってくる途中の呂伯奢をも殺害。みかねた陳宮は曹操のもとを離れてしまいました。曹操は実家に帰ると、義兵を募って各地の群雄に向けて董卓打倒の檄を飛ばします。そして、これに応じた諸侯が続々と洛陽へ進軍を開始。ここに反董卓連合軍が結成されたのでした。
反董卓連合軍
初平元年(190)正月、曹操の檄を受けて立ち上がった各地の群雄が、洛陽東の要塞である水関(しすいかん)に集結しました。第一鎮の袁術、第十四鎮の公孫[王贊]、第十六鎮の孫堅、第十七鎮の袁紹と各地の歴戦の勇たちが自慢の精鋭を引き連れてきたのです。その数およそ四十万。曹操は名門出身である袁紹を盟主にして、この巨大な軍隊を統率させました。まず先陣を切って水関に攻撃を仕掛けたのは長沙の太守・孫堅でした。対するは董卓軍の猛者・華雄。両者は激しくぶつかり合いました。しかし、孫堅の猛攻の前に華雄の副将である胡軫(こしん)が討たれ、華雄は水関に閉じこもってしまいました。孫堅軍は勢い付くとともに、盟主に兵糧の援助を頼みました。兵糧管理は袁術が担当していたのですが、彼はずる賢い人物でした。彼は孫堅に兵糧を貸せば、ますます軍が強大になり、後々厄介になるであろうと考えたのです。そして、彼は孫堅に兵糧を送りはしなかったのです。そんなこととは露知らず、孫堅の軍勢の兵糧は尽き、士気も衰えていきました。ここに華雄が奇襲をかけたため、孫堅の軍勢は大敗北を喫してしまいました。勢いに乗った華雄の軍勢は、そのまま連合軍の本陣近くまで接近します。どの将も恐れおののいている中、関羽がたった一騎で華雄軍に突入。見事首を取って戻ってきたのです。
この報を聞いた董卓は二十万の軍勢を率いて自ら出陣。李カク・郭に五万の兵を与えて水関を守らせると同時に、自身はもう一つの要塞・虎牢関に入り、呂布を関の前方に布陣させたのです。これに対抗すべく、連合側も軍を二手に分けてそれぞれ水関と虎牢関に向かわせました。劉備たちは虎牢関に向かう軍に属していました。両軍が虎牢関で激突すると、呂布が圧倒的な強さで敵を粉砕。連合側は危機に陥りましたが、劉備・関羽・張飛が呂布との一騎打ちに勝ち、呂布軍は撤退します。虎牢関を落とすまではいかなかったものの、連合側は大いに勢い付いたのです。董卓の参謀・李儒はこの敗戦を契機に長安への遷都を提案します。董卓はこれに応じて全軍を洛陽に帰還させ、富豪や陵墓から金品や財宝を強奪。遷都に反対する者を投獄して洛陽に火をかけ、一路長安に向かったのです。連合側は水関を明け渡して降伏してきた将からこの報を聞いて驚きました。洛陽に乗り込んでみると、あたり一面焼け野原となった都がそこにありました。曹操は袁紹にすぐさま董卓軍を追撃するよう提案しましたが、袁紹は軍の疲労をおそれて全軍待機を命じました。曹操は怒って、自らの手勢だけで董卓を追撃しましたが、途中李儒の罠にかかって命からがら逃げのびました。その頃、緒戦の兵糧問題で袁術となんとか仲直りした孫堅が、洛陽の井戸の中から伝国の玉璽(天子の印)を入手していました。それを知った袁紹は孫堅を尋問、双方激しい口論をし、怒った孫堅は故郷に戻ってしまいました。逃げのびてきた曹操も連合から離脱。公孫[王贊]や袁紹も洛陽を後にしました。こうして董卓を討つために立ち上がった諸侯は、互いに相容れぬ結果、瓦解してしまったのです。劉備は諸侯が心を一つにできなかったことを残念に思いながら、平原の領地へ戻っていきました。
磐河の死闘
連合軍の盟主であった袁紹は河内郡で兵糧が欠乏し、その地に軍を駐留させていました。身動きがとれずに行き詰っていると、冀州の韓馥が好意により兵糧を提供。袁紹は喜ぶとともに一計を案じました。彼は土地の豊かな冀州を占拠しようと考えたのです。彼は北平の公孫[王贊]に手紙を送り、共に冀州を攻めて領土を山分けしようと提案しました。公孫[王贊]がそれに応じて冀州へ攻め入ると、韓馥に手紙を送り公孫[王贊]の撃退に力を貸すと提案。まんまと冀州に乗り込んで、その実権を握ったのです。公孫[王贊]が領土の分割を求めて弟を使者に立てて袁紹のもとに送りましたが、弟は袁紹の謀略にあって殺されてしまいます。これに激怒した公孫[王贊]は袁紹に対決を挑みます。両軍は磐河を挟んで布陣しました。しかし、袁紹軍の猛者・文醜の猛攻により公孫[王贊]は追い詰められます。ここで、命これまでかと思われた公孫[王贊]を一人の男が助けます。彼の名は趙雲。天才的な槍の使い手です。さらに救援に駆けつけた劉備の軍勢も公孫[王贊]の陣に加わって、両軍死闘を繰り広げました。董卓は李儒の提案によりこの両者に和睦を勧めます。後に手なずけようと考えてのことでした。両軍はこれを承諾し、それぞれ自分の領地へ引き上げていったのでした。
連環の計
董卓が長安へ遷都を果たすと、その権勢はますます強大なものになりました。諸侯が団結しても勝てなかった董卓の前には、もはや敵はいないも同然だったのです。董卓は長安の西にビ城という巨大な城を築き、そこに二十年分の食糧を納入。美女に囲まれて、酒池肉林・放蕩三昧の日々を送っていました。しかしこの時、ある人物により董卓暗殺計画が秘密裏に行われていたのです。その人物とは、かつて曹操に七星の宝剣を授けて董卓暗殺を支援した司徒・王允です。彼には貂[虫單](ちょうせん)という一人の娘がいました。貂[虫單]は幼い時に王允に拾われ、歌姫として育てられました。彼女は絶世の美女で、王允はこれを武器にして董卓と呂布の仲を裂いて、呂布に董卓を殺害させるという奇計を謀ったのです。王允が貂[虫單]にこの策について話すと、前々から恩義を感じていた貂[虫單]はその役を買って出ました。こうして、後に連環の計として語り継がれる奇策が進行し始めたのです。
まず王允は呂布を自宅に招いて貂[虫單]に酒を酌ませます。呂布はこの美女を大いに気に入り、それを見て取った王允が呂布に貂[虫單]との婚約を勧めます。呂布は狂喜して王允に感謝し、吉日に婚礼の儀を挙げると約束して帰っていきました。その後、王允は董卓を自宅に招きました。同じように貂[虫單]が董卓に酒を酌みに現れます。董卓は絶世の美女と謳われている貂[虫單]を一目で気に入り、王允にこの娘をよこせとせがみます。王允はそれを承諾し、貂[虫單]を董卓の車に乗せて城に送らせました。次に現れたのは、貂[虫單]が城に向かったと聞いて飛んできた呂布でした。王允は呂布に対して、董卓が呂布と貂[虫單]の婚儀を執り行うために城へ向かわせたと言いくるめます。呂布は安堵して王允に謝礼し、帰っていきました。しかし貂[虫單]はすでに董卓のものとなっています。呂布は貂[虫單]を董卓に奪われたと気付き、憤慨します。董卓は貂[虫單]を肌身離さず可愛がり、董卓が病気になると、貂[虫單]はこれを献身的に看護。董卓はますます貂[虫單]を可愛がります。一方で呂布とは董卓の見えない場所で密会し、自分の身が董卓によって汚されてしまった、呂布様とご一緒できるこの時だけが唯一の至福だ、などといったことを呂布に聞かせます。しかし、董卓は呂布が貂[虫單]を抱いているところを見て大激怒、呂布を追っ払います。こうして、董卓と呂布の二人の間に亀裂が生じ始めたのです。呂布は王允の邸を訪れ、董卓に対するあらん限りの罵詈雑言を吐き捨てました。王允は貂[虫單]が首尾よくやっていることを察知し、呂布にそれとなく董卓の暗殺を勧めます。董卓に味方すれば百世の後まで悪名が、殺せば百世の後まで名声が語り継がれることでしょう、と。呂布はこの言葉に釣られ、董卓暗殺の決心を決めました。王允は腹心を集めて策を協議、帝位禅譲を旨にして董卓を宮中に呼び寄せ、待機させていた呂布に殺害させました。ここに暴君として名高き董卓が消え失せたのです。192年のことでした。
確認クイズ
@帝を警護して洛陽を占拠し、以後悪逆非道の限りを尽くした人物は誰?
A反董卓連合の盟主に誰が選ばれた?
B王允が董卓と呂布との仲を裂くために用いた策略を何と呼ぶ?