の英雄

呉の強さは「地の利」を活かした統治法にこそある
一代で国を興した「孫堅」の
領土を拡げた「孫策」が
弟「孫権」に統治を委ね
傍には「二張」「周瑜」が居座った…
大河に揺られる呉の船団に、彼らは何を思っていたのであろうか

孫堅(そんけん)
 字は文台。孫策・孫権の父。若い頃、たった一人で海賊の群れを打ち倒し、天下に武名を轟かした。その後、朱儁の下で黄巾党討伐に功を挙げる。さらに南方で区星が反乱を起こすと、それを征討するべく出陣。結果その地の太守となる。ここで兵力を養った後、反董卓連合に参戦。緒戦を有利に導いたが、味方に裏切られて敗走してしまう。後に荒れ果てた洛陽の井戸から玉璽を発見したが、結果諸将から疑惑を生み、這這の体で郷里に帰った。荊州侵攻中に敵の計略にかかり戦没。
孫策(そんさく)
 字は伯符。父・孫堅が戦死した後、袁術の下に身を寄せていた。そこで父と自分を重ね合わせ、自分のあまりの不甲斐無さを嘆いて独立を決意。玉璽を質に袁術より兵馬を借り入れ、江東侵攻を開始する。劉ヨウ、厳白虎、王朗などを打ち破り、遂に江東に確固たる地位を築いた。こうして彼は父の悲願を達成し、その地の民衆から「小覇王」と称されて慕われた。しかし彼を恨んだ人物の襲撃を受け、その傷を夜な夜な現れる干吉の亡霊によって悪化させられ、若くして死んでしまう。
孫権(そんけん)
 字は仲謀。兄・孫策の死により江東の領土を継承。内政に力を注ぎ、孫家の最盛期を築く。曹操に追われていた劉備と手を組み、赤壁で曹操軍を完膚なきまで叩きのめした。それ以後は劉備、曹操と抗争しつつ領土を拡大。魏、蜀に遅れて呉を建国する。しかし老齢になった孫権は家臣団の意見を統率できず、国は徐々に衰退していった。しかし晋に滅ぼされるまで、呉は江東の大地を支配し続けた。
周瑜(しゅうゆ)
 字は公瑾。孫策とは義兄弟。その容姿端麗さから「美周郎」と謳われていた。孫策挙兵時より付き従い、孫策が死ぬと、その弟・孫権を補佐して呉の隆盛に貢献した。しかし赤壁の戦いで鬼才ぶりを発揮する諸葛亮を妬み、彼を暗殺しようと色々な策を試みるが、全て読み通されて悔しさのあまり絶命してしまった。彼自身が秀才だったがゆえに、それを遥かに超えていた諸葛亮の才能を嫉妬せずにはいられなかったのであろう。
張紘(ちょうこう)
 字は子綱。呉の文官。張昭とペアで「二張」と称された実力者。孫策が没した際、その期に乗じて攻め込もうとした曹操を諫めに使者として向かい、見事これを思い止まらせた。赤壁の戦いの後、「呉の都を建業に移せ」と言い残して死去。孫権は彼の遺言に従い、すぐさま都を建業に遷都させた。この結果、呉は隆盛を極めることになる。
張昭(ちょうしょう)
 字は子布。呉の政治を任されていた人物で、孫権からの信用も厚かった。孫策は遺言で「外の問題は周瑜に、内の問題は張昭に任せろ」と語ったという。そんな彼だからこそ非戦争主義者であり、赤壁の戦いでは孫権に曹操への降伏を勧めた。しかし周瑜の奮闘により見事曹操軍を赤壁に破ったため、彼の立場は悪化。以後、孫権も彼を重用することはなくなってしまった。

黄蓋(こうがい)
 字は公覆。孫堅・孫策・孫権の三代に付き従った古参の将軍。主君に従って各地を転戦し、数々の武功を挙げた。特に赤壁の戦いでは周瑜と協力して苦肉の計を仕掛け、曹操の大軍を見事打ち破った。ある時は一兵卒と見間違えられてしまうほど前線にたって戦を指揮したが、一方で仁義に篤く、兵士は彼のために命を投げ出して戦ったという。(画・募集中)

程普(ていふ)
 字は徳謀。孫堅の黄巾賊討伐の頃から付き従い、各地を転戦した将軍。江東平定や荊州攻略に功があり、諸将からの信頼も厚かった。特に孫策が祖郎の大軍に囲まれた際、それに臆せず敵を蹴散らし、彼を救い出した話は有名。赤壁の戦いでは若輩の周瑜の麾下で働くことを嫌ったが、その才能を確認した後は副都督として彼を全面的に補佐した。(画・募集中)
太史慈(たいしじ)
 字は子義。身の丈七尺七寸の偉丈夫。弓の腕前は百発百中の命中率を誇るほど。信義に篤い男で、母の世話をしていた孔融の城が敵軍に囲まれると、敵の重囲を打ち破って入城。その後、劉備軍に救援を求めて見事これを打ち破った。その後、劉ヨウに仕えるが重用されなかった。孫策が江東に侵攻してくると果敢に対抗。善戦するも、結果敗北して捕らえられる。以後は孫策・孫権に仕え、数々の戦で武功を挙げた。張遼と交戦中に矢を受け負傷し、没した。(画・おちばさん)

徐盛(じょせい)
 字は文嚮。智勇兼備の呉の名将。周瑜麾下として働いていた頃は特に目立たない武将だったが、赤壁の戦いや合肥攻略、荊州争奪戦において武功を挙げ、孫権から信頼を得る。その後、曹丕が軍勢を引き連れて呉討伐に現れると、孫権から安東将軍に任ぜられて呉軍を指揮し、偽の城壁を描いて敵を混乱させ、これを打ち破った。
呂蒙(りょもう)
 字は子明。若い頃は武勇一辺の人物だったが、孫権に学問の大切さを諭され、以後は必死に勉強する。短期間での彼の成長ぶりは諸将を驚かせ、特に魯粛は「呉下の阿蒙にあらず」と言って感嘆したという。荊州攻略戦では、まだ無名だった陸遜を先陣に立てて関羽を油断させ、見事勝利を収めた。しかし関羽の死後に七つの穴から血を噴いて変死を遂げた。一説には関羽の霊が彼の体に乗り移ったとされている。
魯粛(ろしゅく)
 字は子敬。大富豪。周瑜が食糧援助を求めた際、二つあった倉の一つをまるまる提供し、まだ貧弱だった孫陣営を救った。それがもとで周瑜とは知己の仲となり、これが長じて周瑜のパシリと化した。諸葛亮の策にはめられまくったため、かなり面子を損なった彼だが、実際は有能な人物であることに間違いはない。それは周瑜が没した後に、彼が都督の座を引き継いだことからも証明される。
陸遜(りくそん)
 字は伯言。まだ無名だったからこそ、それを逆手にとって利用し、一躍名を馳せた名将。呂蒙と謀って関羽を油断させ、結果関羽を見事捕縛した。関羽を殺されて大いに怒った劉備が大挙して呉に侵攻すると、孫権から大都督に任命され、ひたすら防衛に徹する。そして戦線を拡大した劉備軍の隙を突いて火攻めを仕掛け、見事勝利を収めた。この心痛がもとで劉備は逝去。張飛も劉備が呉征伐を決意しなければ、部下に殺されるという惨めな死に方は避けられたであろうことから、劉備三兄弟は彼に殺されたと言っても決して過言ではない。
甘寧(かんねい)
 字は興覇。益州巴郡の人。荒くれ者を従えて長く遊侠を好んでいたが、後に学問に励んで劉表に仕える。しかし上司の黄祖と折り合いが悪く、それに嫌気が差した彼は蘇飛の助けを得て呉に降る。以後は主家のために命を張って戦い、孫権から「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる」と称されるまでに至った。劉備の呉征討に協力した武陵蛮の沙摩柯に射殺されて戦没。(画・紫亜さん)