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蜀の強さは「人の和」によって強固に結びついた絆にこそある
漢王室の血筋をひく仁君「劉備」を始め
天下無双の豪傑「関羽」「張飛」
神算鬼謀の天才軍師「諸葛亮」…
深山乱立する蜀の山奥で、彼らは何を思っていたのであろうか
劉備(りゅうび) 字は玄徳。前漢景帝の子・劉勝の末裔。父と早くに死に別れ、母と共に筵(むしろ)を織って生計を立てていた。そんな時、黄巾賊討伐のための募兵札が彼の住む村に立てられた。彼は関羽・張飛と共にこれに賛同して義勇軍を決起。以後各地で名を挙げていく。しかし彼の前には苦悩の毎日が立ちはだかり、希望の光が見えないまま年を取っていった。そんなある日、彼は名軍師・諸葛亮を陣門に引き入れた。この諸葛亮という人物に支えられ、彼は一気に勇躍を始める。そして遂には益州に蜀を建国するに至ったのである。 |
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劉禅(りゅうぜん) 字は公嗣。劉備の長男。十七歳で蜀の第二代皇帝に即位する。諸葛亮存命中は彼に政務を任せていたが、孔明と董允の没後は宦官の黄皓を寵愛し、蜀を滅ぼす遠因を作った。263年、蜀は魏によって滅ぼされ、劉禅は降伏した。後に司馬昭が劉禅を宴席に招いて蜀の音楽を流させたが、蜀の旧臣は涙を流したにも関わらず、彼は始終上機嫌だったという。彼の幼名「阿斗」は無能の代名詞。(画・徐庶さん) |
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張飛(ちょうひ) 字は翼徳。一騎当千の武者。蛇矛の使い手。関羽と同じく劉備を慕って義兄弟の契りを結ぶ。曹操に下った関羽が「百万の兵の中で大将の首を取ることなど朝飯前」と脅しをかけたため、曹操が長坂橋で張飛が一騎で通せんぼをしているのを見ると、すぐに軍を撤回させた。そんな一本気な彼だからこそ部下を上手く扱えず、結果過酷な仕打ちを恨んだ部下に殺されてしまった。 |
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関羽(かんう) 字は雲長。青龍堰月刀の使い手。劉備を慕って義兄弟の契りを結び、黄巾賊征討から蜀建国まで付き従った天下屈指の猛者。戦場にて数え切れないほど多くの将を叩き切ってきた関羽だが、一方で文才に長け「春秋左氏伝」を愛読して、全文章を暗唱したという話もある。そんな文武両道の彼だったがゆえに自信過剰気味なところがあり、これが後に彼の命を奪うことになった。 |
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趙雲(ちょううん) 字は子龍。初め公孫[王贊]に仕えていたが、主家滅亡後は劉備に従う。以後、劉備陣営になくてはならない武将になっていく。特に長坂橋の戦いでは見失った劉禅を探すため、百万を超える曹操軍に向かって単騎で突入。甘夫人を助けることは出来なかったものの、見事劉禅を救出した。その後、歴戦の功績を称えられ五虎大将に任ぜられる。劉備が彼の武勇を褒め称え「子龍の全身これ胆なり」と賞した話は有名。 |
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徐庶(じょしょ) 字は元直。水鏡先生の門下生。軍師不在の劉備陣営を救った。大軍で攻め寄せてきた曹仁の軍勢を的確な采配で叩き伏せた。しかし、この報を聞いた曹操が徐庶の母を許都に呼び寄せて人質としたため、やむなく曹操に仕えることになってしまった。劉備陣営を去り際、彼は一人の大賢者を推薦した。その人物こそ次に紹介する諸葛亮であった。 |
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諸葛亮(しょかつりょう) 字は孔明。三国史上屈指の大軍師。軍師の存在を必要としていた劉備の「三顧の礼」に応じ、出廬(しゅつろ)して劉備陣営に加わる。以後は赤壁の戦いや荊州争奪戦に大いに活躍し、その名を一躍天下に轟かした。劉備死後も忠節を尽くし、劉備の子・劉禅に出師の表を上奏して北伐を開始した。しかし彼の奮闘むなしく戦果はなかった。延命の祈祷も失敗し、遂に五丈原にて没する。この時の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事は有名。 |
![]() 字は士元。伏竜(諸葛亮)・鳳雛([广龍]統)と並び称された大賢者。赤壁の戦いでは曹操の船団を鎖で繋ぎ合わせ、連環の計を成功させた。これにより呉軍は大戦果をあげることになった。この功により孫権に仕官するよう勧められたが、孫権が[广龍]統の醜態ぶりを嫌ったのを見て見限り、孔明の推挙を経て劉備に仕えた。以後は劉備の入蜀に尽力したが、惜しくも落鳳坡で敵の伏兵に襲われ戦没した。(画・夏侯惇さん) |
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馬良(ばりょう) 字は季常。襄陽郡宜城県の人。蜀の文官。伊籍の推挙により劉備に仕え、荊州南郡の攻略に大いに貢献した。馬良の兄弟は皆優秀であったが、「馬氏の五常白眉もっとも良し」といわれ、眉に白い毛が混じっていた馬良がもっとも秀才とされた。優秀な人物という意味で使われている「白眉」の語源はここにある。劉備の入蜀後も関羽の補佐役として活躍したが、正史では後の夷陵の戦いで壮絶な最後を遂げている。(画・募集中) |
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馬謖(ばしょく) 字は幼常。馬良の弟。兄と共に伊籍に推挙され、劉備に仕えた。孔明は馬謖の才能を評価したが、劉備は口先だけで実が伴わない人物だと答えた。劉備の死後、南蛮制圧において孔明に「心を攻めるが上策」と献策したり、司馬懿を流言飛語で失脚させるなど大いに活躍し、孔明は馬謖を信頼して可愛がる。しかし街亭の戦いで大失態を演じ、孔明は軍規に則して泣く泣く馬謖を斬った。「泣いて馬謖を斬る」の故事はここから生まれた。劉備の忠告があったにも関わらず悲惨な結果になってしまったことを悔やんだ孔明は、後に劉禅に自ら降格を願い出ている。(画・募集中) |
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黄忠(こうちゅう) 字は漢升。初め韓玄に仕えていたが、劉備に攻められると主君を見限って魏延と共にこれに帰順した。百発百中の弓術を誇り、数々の戦に獅子奮迅の活躍を見せる。劉備の入蜀後、五虎大将に任命されるが、この時すでに老齢であり、後にそれをからかわれて憤怒し敵陣に突入したため、この時受けた傷により没してしまった。 |
魏延(ぎえん) 字は文長。もとは劉表の臣。黄忠と共に韓玄に仕えていたが、その無能ぶりに見切りを付けて劉備に帰順した。孔明は彼に反骨の相があるのを見て、劉備に斬るよう進言したが、聞き入れられなかった。その後、五虎将軍に次ぐ将として活躍。北伐にも主戦力として従軍した。しかし孔明の死後は楊儀と対立し、孔明の密命を受けていた馬岱に斬り殺された。(画・月刀さん) |
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法正(ほうせい) 字は孝直。彼の故郷が飢饉に襲われたため、同郷の孟達と共に益州へ赴いて劉璋に仕えたが、重要されなかった。これにより長くその才能を開花できずにいたが、劉備が荊州を手中に収めると、張松と共謀して劉備に益州を統治させようと画策。結果劉備の入蜀が果たされ、彼は重職に就任した。以後も定軍山で夏侯淵を打ち破るなど活躍したが、夭逝する。後に孔明は、法正がいれば夷陵の敗戦はなかったと嘆いている。(画・募集中) |
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馬超(ばちょう) 字は孟起。父・馬騰を曹操に殺されて仇討ちを挑むが、曹操の姦計にかかり敗北。一時的に漢中の張魯の下に身を寄せる。この頃、劉備の軍勢は入蜀を始めていた。当初は張魯の命により劉備軍と争っていたものの、孔明の策にかかり、これに帰順。入蜀後、功績を称えられて五虎大将に任ぜられる。以後は獅子奮迅の活躍を見せ、戦場での華々しさから「錦(きん)馬超」と称された。 |
馬岱(ばたい) 字は不明。馬超の従弟。渭水の戦いで馬超と共に曹操に挑むが敗れ、張魯の食客となる。その後、蜀に侵攻した劉備に帰順。南蛮制圧では敵将・忙牙長を一突きにし、孟獲らを捕らえるなど獅子奮迅の活躍を見せた。北伐では左軍領兵使として出陣し、的確な助言で蜀軍を有利に導いた。孔明の死後もその遺言に従って魏延を倒し、蜀のために尽力した。 |
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姜維(きょうい) 字は伯約。初めは魏の将軍だったが、諸葛亮の策にかかってこれに降伏する。以後は転じて魏討伐に活躍して戦果を挙げた。そんな忠実な将である彼を諸葛亮は愛し、弟子として全ての秘伝を彼に授けた。諸葛亮没後は北伐の総大将を務め、幾度となく魏を攻め立てた。しかし諸葛亮が成し得なかったことが彼にできるはずはなく、長期の出兵により蜀の国力は疲弊し、結果蜀は滅亡への一途を辿ることになる。 |