三戦無双とは三国武将と戦国武将が相乱れて戦いあう無双シリーズの最新作…ではない。それは無双製作スタッフに期待するとしよう(執筆から数年後、無双OROCHI発売w)。一言でいえば「三国志の武将を戦国武将に置き換えると誰になるか」ということだ。三戦「夢想」でもいいかもしれない。戦国武将に関して知識のある方にオススメのコーナー。多少無理はあるかもしれないが、そこはお手柔らかに頼みます。

三国武将VS戦国武将 解説

曹操孟徳

VS

織田信長

 曹操といえば、やはり中国の織田信長ではなかろうか。曹操も信長も共に小さい頃は悪ガキだった。しかしただの悪ガキではなく、手下を上手く統率し、知恵を働かせ、常日頃から乱世を生き抜く手腕を鍛えていた。さらに天下を統べるという野心も若い頃から抱いており、常人とは違う気質の持ち主であることが窺い知れる。性格や気性は他にも共通点がある。チャンスとみたら誰よりも先に果断な行動を起こす点も似ている。信長が今川義元の酒宴という一瞬の油断をついて桶狭間の勝利を収めたように、曹操も敵の不注意を上手く利用して呂布や袁紹といった強豪を打ち破っている。

 両者は内政面でも大きな功績があり、信長は楽市楽座により商売人を城下に集め経済の流通を活性化させたが、曹操も民屯を考案して食糧の収入を確保し、軍事力の礎とした。外交面でもそうだ。将軍・足利義昭を擁護した信長と同じように、曹操も献帝を擁立。自身の権勢を一層高めるために、帝や将軍を「利用」するということも重要な戦略だと知っていたのだ。

 信長は茶の湯を嗜む文化人でもあったが、曹操も文才に長じていたことで有名。このように文化を理解する性格の余裕がある反面、敵対する者に対しては凄惨な仕打ちを繰り返した。信長が比叡山を焼き払ったように、曹操も徐州で大量虐殺を行った。しかしこれも乱世をまとめるためには必要な力。先見力と画期的な政策、そしてそのカリスマ的なリーダーシップで頭角を現した曹操と信長。世が行き着くところまで乱れれば、突如彼らのような“姦雄”が現れ、そこに人が集まるようである。

諸葛亮孔明

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竹中半兵衛

 竹中半兵衛が戦国の孔明に例えられるケースはよくあるようだ。生き様は違えども、軍師として主君から絶大な信頼を受け、それをよく補佐し成功へ導いたという点は、確かに彼らに共通したものといえよう。

 半兵衛は主家である斎藤家を見限って、山野に隠遁していた。しかしその才能を伝え聞いた羽柴秀吉は、幾度も半兵衛の庵を訪問。時には自ら下手に出て半兵衛の背中を流してやるほど、彼の登用に苦心したという。その懇願を受け、半兵衛は遂に秀吉の軍師となることを決意した。孔明も三度に及ぶ劉備の訪問に感激し、仕官を決意した。賢者を得るために、身分の違いなく礼を尽くした劉備と秀吉。孔明も半兵衛も、この名君との出会いにより出廬を決意したのだ。

 その後、半兵衛は浅井攻めや中国地方攻略で数々の功績を挙げるが、若くして病没。孔明も劉備を大いに補佐し北伐を繰り返すが、中原に進出することなく命を落とした。賢者はいつの時代にも隠れており、それを見つけ出すのは難しいが、そんな彼らをもってしても天の時を得ることはさらに難しいようだ。

司馬懿仲達

VS

徳川家康

 少し悩んだが、共通点がないこともないので記載した。司馬懿仲達といえば、孔明最大の宿敵として知られている。忍耐力と慎重さで孔明の計略を回避し、遂には孔明の中原進出の夢を阻んだのである。孔明も「動かぬ敵」を相手にするのはさぞかし苦労したことだろう。その後司馬懿は電撃的なクーデターを起こして魏の実権を掌握し、晋建国の地盤を固めた。三国時代を終焉に導く一手を打ったのだ。

 一方の家康は、桶狭間ののち清洲同盟を結び織田信長の盟友となったが、それゆえに苦労も多かったという。特に敵への内通を疑われた嫡子・信康を信長の命で切腹させなければならなかったことは、辛苦の極みであっただろう。しかし家康は司馬懿に劣らぬ忍耐力でただひたすら我慢を続ける。そんな慎重派で待ちの家康も秀吉の時代が終わると遂に本領を発揮。関ヶ原で石田三成を倒し、大坂の陣で豊臣秀頼を倒し、戦国時代を終焉に導いた。

 ところで司馬懿は五丈原で死せる孔明に走らされたが、家康も最後の決戦である大坂夏の陣で真田幸村に命を狙われたとか。これも両者の小さな共通点といえようか。ともあれ司馬懿も家康も、どんなに年をとっても最後まで忍耐強く虎視眈々と天下を狙っていた。古狸という言葉がよく似合う。その慎重に慎重を重ねた行動が最後に成功を収めたカギとなった。しかし自分の存命中に息子に将軍位を譲り、次代の政治の屋台骨にまでビジョンが及んだ家康の方が、司馬懿に比べて遥かに人物が大きかった。それは以後260年も続いた江戸の幕政をみれば明らかだ。晋(西晋)は50年で滅んでいる。

袁紹本初

VS

今川義元

 袁紹は四世三公の名門の家柄、今川義元は「東海一の弓取り」と謳われた駿河の有力大名で名門足利氏の支族である。当時の情勢では相当優位に立っていた両者は、上洛して天下に号令するという大きな野望を心中に秘めている反面、優柔不断で詰めが甘い性格を持つという点で酷似している。

 今川義元は甲斐の武田氏・相模の北条氏と結んで後顧の憂いを絶つと、念願であった上洛の夢を果たすべく尾張に侵攻した。数で劣る織田軍は、前線の砦を次々と今川軍に撃破され窮地に立たされる。義元はこの善戦に喜び、織田信長は噂通りのうつけだと完全に油断してしまった。この油断が命取りとなった。信長は桶狭間で酒宴により泥酔した今川軍の本陣を急襲し、義元の首級を挙げた。

 袁紹の生涯もこれに似ている。曹操と対決して中原に覇を唱える…義元同様、名門の出という自信が生んだ野望はあった。しかし、その育ちの良さゆえの優柔不断さが袁紹自身を追い詰めていった。田豊を初めとする賢臣の言を聞かず、袁紹に諂う近臣の意見ばかりを受け入れ、数々の曹操征伐のチャンスを見逃す。そして官渡の決戦で兵糧基地を凡将に守備させるという詰めの甘さが祟り、数で劣る曹操軍に完膚なきまで叩きのめされた。名門出身というお坊ちゃん気質が彼らの運命を変えたのだ。乱世で求められるのは決断力と「勝って兜の緒を締める」ことである。

劉備玄徳

VS

???

 それでは三国志の主人公ともいえる劉備玄徳はというと…残念ながら適格者がいない。義勇軍を率いて歴史の表舞台に登場し、その後平原の太守、徐州の太守を務め、呂布・曹操・袁紹・劉表と諸将の下で髀肉の嘆をかこちながら、最後は荊州を地盤に蜀を築く壮大な生涯。何とも波乱万丈の人生であり、ここまで各国を転々としたケースは戦国時代に例がない。

 徳川家康がまだ近いか。今川家の人質→桶狭間で独立するも立場は信長が上→本能寺でチャンス到来も秀吉に先手を取られる→秀吉の命で関八州のど田舎に転封→ちょ、五大老てw家臣化とかふざけんな→秀吉死後、江戸を本拠に幕府を開いた。しかし「演義」派の私にとって、狸親父と希代の仁君を同列化することはできない。また劉備は天下人にはなっていない。

 人格面では秀吉を劉備と比較する見方もある。先述した三顧の礼による半兵衛の登用。情に厚く、家来からはカリスマ的な人気と人望を誇る。人格関係ないがともにわらじ売りでしたね。しかし皇族の血筋を引く劉備と下層階級出身の秀吉という出自の違いがある(秀吉の天皇落胤説?信じませんw)。また秀吉も劉備と違い天下人である。

 こうしてみると、他の人物に所々かぶるところはあれ、やはり劉備の特異な生涯は誰にも真似できるものではないことが分かる。なら書くなというところだが、最後は三国志の世界を雄大に描き出してくれる劉備の生き様に改めて魅了されて終わろうと思ったわけでして。三戦無双はこれにて終幕。