黄巾の乱

 三国志の歴史が幕開けしたきっかけは、中平元年(184)に突如勃発した黄巾の乱でした。約四百年あまりもの長きにわたり中国の大地を支配してきた漢王朝、しかしこの時代には、宦官による専制政治、民衆に課せられる重税、加えて旱魃(かんばつ)・疫病・凶作といった天変地異が重なって、民衆は苦しみのどん底をさまよっていました。太平道の教祖・張角は、ここに目を付け、各地の流民を呼び集めて黄巾賊を結成しました。「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし」、後漢王朝の時代は終わり今こそ我ら民衆が立ち上がる時だ、張角はこう主張したのです。このスローガンは苦悩の日々を過ごしてきた民衆の間で爆発的なヒットとなり、中国各地で黄巾の乱が勃発。瞬く間に巨大な勢力になっていきました。後漢打倒のために立ち上がった黄巾賊、しかしながら、彼等の当初の目的はいつの間にか消え失せていったのです。気が付けば、彼等は各地の町村を襲って強盗略奪を繰り返す暴徒となっていました。人々は更なる事態の悪化に混乱をきたし、中国の大地に大いなる暗雲が垂れ込んだのです。

桃園の誓い

 [シ豕]県(たくけん)・楼桑村。この小さな村に、草鞋を売って生計を立てている一人の男がいました。彼の名前は劉備玄徳。漢の中山靖王・劉勝の末裔、景帝の血を引くという由緒正しい人物です。彼は黄巾賊の暴挙に強い反感を抱きながらも、自分の力のなさに嘆いていました。そこに幽州の太守・劉焉(りゅうえん)が義軍募集の高札を掲げました。それは官軍(後漢王朝の軍隊)の力では、もはや黄巾賊の暴挙を抑えることができないということを意味していました。この高札を前に劉備が義軍入隊について躊躇していると、後ろから張飛と名乗る巨漢の人物が劉備の自信のなさに大喝。劉備は何かから目覚めたように、義軍への参加を決意したのです。張飛の兄貴分であった関羽と共に、劉備は彼の桃園で義兄弟の契りを結びました。劉備が長兄、関羽が次兄、そして張飛が末弟。劉・関・張三兄弟がここで固い意志と野望で結ばれたのです。

黄巾の乱の終焉

 劉備は義兵を結成すると、直ちに劉焉のもとに駆け付けました。同じ劉一族と知った劉焉は、劉備の来訪を歓迎、義理の甥として扱いました。そうこうしている内に劉備の仕事がすぐ舞い込んできました。最初の任務は大興山に陣取る黄巾賊の退治でした。ここで劉備は関羽・張飛とともに一斉攻撃を仕掛け、敵将・程遠志を討ち取ります。その後も青州城の救援や河南の決戦などで獅子奮迅の活躍を見せ、遂には黄巾賊の副頭領である張宝を倒し、官軍を勝利に導きました。もう一人の副頭領・張梁も官軍の皇甫嵩ならびに曹操の攻撃を受けて戦死。病を患っていた張角も大いなる失望に倒れ、ここに黄巾の乱は幕を閉じました。劉備玄徳は二十三歳の若さでその名を天下に轟かせたのです。

劉備の苦悩

 黄巾の乱を平定した官軍の将たちは、続々と都・洛陽へ凱旋しました。武勲を挙げた皇甫嵩・曹操らは霊帝より高位高官を授かりましたが、義軍の劉備たちには何の沙汰もありませんでした。みかねた後漢の郎中・張鈞(ちょうきん)が、霊帝にその事を上奏して諌めましたが、霊帝を牛耳り一切の政務を掌っていた十常侍によって阻害され、暗殺されてしまいました。十常侍は義軍上がりの劉備たちに官位を与えるのを躊躇いましたが、とりあえず中山府安喜県の県尉という小さな役職を与えて様子を見ることにしました。劉備はそれでも不平不満を言わずにその職を拝命し、任地へ赴きました。しかし、しばらくして都から督郵(地方の巡視官)がやってきました。督郵は劉備に賄賂をせがみましたが、劉備は民が苦労して納めた税金を賄賂になど使えないと拒否、怒った督郵が手下の者に劉備の悪行を訴状に書かせたのです。それを知った張飛が大激怒。督郵を捕まえて木に縛り、鞭で叩いて懲らしめました。これで帝に反することになってしまった劉備は、やむなく任地を去り、流浪の旅に出かけることになったのです。劉備らが旅を続けていると、突然官軍の一隊に出くわしました。その軍を率いていたのは公孫[王贊](こうそんさん)という人物で、北平の太守を務めていました。劉備とは旧知の仲で、劉備も彼を兄貴分として慕っていました。公孫[王贊]は劉備の不遇を哀れみ、旅先で劉備たちが倒したという盗賊が手配中のものであったのを上手く利用し、督郵への非礼を赦免させ、平原県の県令という官職を推挙させたのです。劉備は彼に深く感謝して別れ、直ちに任地へ赴きました。

十常侍と何進

 一方、都・洛陽ではある異変が起ころうとしていました。霊帝が危篤状態に陥ったのです。霊帝には二人の妃がいて、名を何太后と王美人といいました。そして、その二人ともが霊帝との間に子供を持っていました。しかし、自分の息子である弁皇子を次の帝に即位させたい何太后は、王美人を毒殺。その子・協皇子を霊帝の生母に預けさせたのです。これにより宮中では、何太后の兄である何進(かしん)の権力が一気に増し、洛陽の取締役である大将軍に抜擢されることになったのです。それはさておき、霊帝の余命はもはやいくばくもありません。その霊帝の最後の願いが、協皇子を次の帝にすることでした。ところで十常侍は、最近の何進の勢いが面白くありませんでした。さらに、もしも弁皇子が次期皇帝に即位すれば、何進の権力は増大するばかりです。これを危惧した十常侍は、何としてでも何進の権威を失墜させたかったのです。そんな最中に霊帝の危篤。十常侍はここぞとばかりに霊帝に進言しました。「協皇子を次の帝に即位させるためには、後顧の憂いを絶つために何進の暗殺が必要です」と。霊帝には、もはやそれを画策する気力は残されていませんでした。よって、十常侍は極秘裏に何進暗殺計画を企んだのです。しかし、この情報はいとも容易く何進の密偵に知られ、激怒した何進は霊帝崩御と同時に十常侍および宦官誅滅を掲げて宮廷に乗り込みました。こうして、蹇碩(けんせき)ら何進暗殺を企てた者は全員殺されました。しかし、十常侍の一人である張譲は必死で何太后に命拾いを嘆願。何太后はこれを了承し、これ以上の殺生は無益だと何進に忠告しました。何進はこれを承諾し、張譲は命拾いをしたのです。こうして、弁皇子を少帝として即位させた何進は宮中の全ての権力を手に入れたのでした。

 しかし、しばらくするとまたもや張譲らが何進の権威失墜を目論んで動き始めたのです。怒った何進は今度こそ全員抹殺をしようと試みましたが、何太后に十常侍にはこれ以上手をかけないと約束してしまったため、各地の豪族に使者を送り、宮廷に乗り込んで残りの十常侍を殺害するように命じたのです。しかし、その最中に何太后が何進に話があると使者をよこしました。曹操ら配下の将は、これは十常侍の策略に違いないと進言しましたが、何進は十常侍をなめてかかって聞かず、結局、曹操・袁紹率いる精鋭を引き連れて、何進一人宮廷の中に入っていきました。当然、これは十常侍の策略でした。何進は張譲らによって謀殺され、首は曹操らのもとに送られました。張譲は曹操らに万事終わったので、軍を撤退させるよう命令しました。しかし、曹操はこうなることを見越して精鋭を引き連れてきたのです。曹操は張譲の命令を無視して、十常侍と宦官の撲滅を今度こそ果たすよう全軍に伝え、宮廷に攻めかかりました。老若男女二千人あまりが殺され、十常侍もことごとく討たれました。張譲は少帝と陳留王(協皇子)を連れて宮廷から逃走しましたが、追手の攻撃を受け入水自殺。少帝と陳留王は、何進の使者から事情を聞いて西涼から上洛してきた董卓の軍勢に警護されて、無事宮廷に帰還しました。こうして、十常侍と何進をめぐる争いに終止符が打たれたのです。

確認クイズ

@184年に中国各地で起きた大規模な住民反乱を何と呼ぶ?

黄巾の乱紅巾の乱土一揆   正解はこちら

A義勇軍を決起して黄巾の乱に立ち向かった人物は誰?

曹操張角劉備   正解はこちら

B霊帝から政治の一切を任されていた人物は誰?

何進十常侍袁紹   正解はこちら